スマホ一つで、いつでも誰とでもつながれる時代。便利になった一方で、「帰宅後の確認」「休日のひとこと返信」が積み重なり、気づけば時間外でも働いているのに働いていないことになっている状態が生まれます。その結果、残業代請求やメンタル不調、退職の引き金になることも少なくありません。
「うちは大企業じゃないから仕方がない」「現場が回らないから仕方がない」──そのように考えている中小企業ほど、実は大きな労務リスクが潜んでいるものです。
本コラムでは、時間外の連絡を「個人の善意」に任せず、時間外の自由時間(プライベートの時間)を尊重するための「つながらない権利」の考え方、実務上のリスクや注意点を解説します。
「つながらない権利」と労務リスク
1.「つながらない権利」とは?
つながらない権利とは、退勤後や休日など勤務時間外に、メール・チャット・電話への「即時の対応」を当然とせず、自ら対応しないことを選べる状態のことを指します。日本では現時点(2026年3月時点)で、これを明文で直接「権利」として定めた法律はありません。
一方、海外では制度化が進み、フランスでは2016年の労働法典改正によって、従業員が勤務時間外に電子メールなどへ返信しなくてよいとする考え方が示されました(ただし、企業に対して具体的な取り決めを一律に義務付ける制度ではなく、労使協議を通じて対応を検討する仕組みが採られています。)。
また、ポルトガルは原則として勤務時間外の連絡を控える義務を置くなど、法的な枠組みが整っています。違反企業には売上高に応じて613~9690ユーロ(約8万~約126万円)の罰金を科す場合があります(ただし、従業員数が10人未満の企業は、この法律の対象外)。
出典:日経新聞2021年11月16日「勤務時間外の電話、罰金最大126万円 ポルトガルが新法」
2.中小企業で問題視されるケース
- 社風や社内コミュニケーションが「既読がつく=返信できるはず」前提であり、返信しないと注意されたり評価が下がったりする。
- 管理職・キーマン・優秀層に業務が集中し、夜間や休日などの時間外に顧客・取引先・上司・部下からの連絡が絶えない。
- 取引先や顧客が緊急事態ではない通常の質問や要望(場合によれば些細なものまで)を自社都合で四六時中連絡してくる。
なぜ、「つながらない権利」がリスクになるのか?
──採用・定着、残業代、ハラスメントのリスク──
1.通知が来るだけでも休息が削られる
kubell株式会社が実施した「仕事で利用しているチャットに関する実態・意識調査」では、9割を超える人が業務時間外であってもビジネスチャットの内容を確認していることが示されています。
出典:株式会社kubell、「ビジネスチャット「Chatwork」、 “仕事で利用しているチャットに関する実態・意識調査”を公開」
たとえ返信まではしなくとも、通知が届けば「内容だけは見てしまう」という行動が一般化しているということです。
この調査結果は、勤務時間外であっても、通知や未読表示がきっかけとなって心理的に仕事へ引き戻される可能性が高いことを示唆します。そして重要なのは、こうした「つい見てしまう」という反応は、本人の意思や自制だけでコントロールしきれない側面があるという点です。
だからこそ、時間外の連絡や通知の扱いを個人任せにせず、組織としてルールと運用を整える必要があります。
2.時間外の連絡を「個人任せ」とするリスク
① 隠れ残業の発生
時間外の連絡を個人任せにすると、退勤後の確認や返信が常態化し、実質的な「隠れ残業」が生まれます。
② 残業代(割増賃金)の発生
時間外に連絡して業務対応を求めていれば「労働時間」と評価され、未払い残業代(割増賃金)の問題が発生します。
③ メンタルヘルス問題の発生
時間外の連絡が常態化し、休息不足(事実上の長時間労働状態)を放置すればメンタル不調が発生し、休職問題や安全配慮義務違反を問われることになります。
④ パワハラ問題の発生
時間外の連絡の頻度や態様次第では「パワハラ」と評価されます。
特に管理職・キーマンに業務が集中する職場ほど夜間休日の連絡が増え、休職や離職リスクを高めます。
「つながらない権利」とパワハラ
──時間外の連絡が「指導」から「支配・監視」に変わる瞬間──
1.パワハラ該当性の判断基準
①優越的関係を背景とした言動
②業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの
③就業環境が害されること
時間外の連絡は、それ自体が直ちに違法ではありませんが、緊急性・必要性、回数・頻度、時間帯、要求水準、言い方・断りにくさ、代替措置の有無で評価が変わり、パワハラに該当するおそれがあります。
2.現場でパワハラになりやすいケース
- 既読・未読を監視して叱責する、返信が遅いことを人事評価に結びつける
- 「今すぐ返して」が前提のグループチャットの運用
- 休日の「軽い確認」が積み上がり、実質的なオンコール状態
裁判例から学ぶ「つながらない権利」
──アクサ生命保険事件(東京地判 令和2年6月10日)──
1.事案の概要
会社の育成部長だった管理職(従業員)が、育児短時間勤務の部下(16時退社)に対し、上司が帰宅後の遅い時間(19時〜、遅いと23時頃)に、頻繁に電話等で業務報告を求めた。会社はこの行為を「態様・頻度に照らし業務の適正範囲を超える」としてパワハラに当たると判断し、管理職に戒告処分を行いました。
これに対し、戒告処分を受けた管理職の従業員は、「本件戒告処分は懲戒権の濫用にあたる」として、戒告処分の効力を争いました。
2.裁判所のポイント
裁判所は、「時間帯」「頻度」「立場の優位性」を踏まえ、「業務の適正な範囲を超える」としてパワハラに該当するとして、懲戒(戒告)処分は有効である、と判断しました。
特に、緊急性が乏しいにもかかわらず夜間に何度も連絡する行為は、たとえ指導目的であっても相当性を欠くことが示されました。
加えて、育児・介護等の事情を抱える社員に対しては、時間外の連絡が私生活や休息に与える影響がより深刻に評価されやすいので、企業としては連絡の必要性・方法・頻度の限定かつ慎重に行う必要があります。
「つながらない権利」が法制化?
──次の労基法改正議論では努力義務で終わらない可能性も──
国の議論の現在地
2026年の施行が想定されていた労働基準法改正は、国会への法案提出が見送られました。ただし改正自体がなくなったわけではなく、議論自体は継続しているため、企業には今後を見据えた対応が引き続き求められます。
特に、テレワークやビジネスチャットの普及により、従来よりも「いつから・どこまでが労働時間か」「勤務時間外にどこまで対応を求められるのか」といった、勤務時間の捉え方や労働と私生活の線引きが曖昧になりやすいという状況が、議論の背景にあります。こうした問題意識の延長線上で、勤務時間外の連絡や即時対応を当然視しない―いわゆる「つながらない権利」も、労務管理の論点として取り上げられています。
仮に今後、法文上の位置付けが努力義務にとどまるとしても、企業の責任が軽くなるわけではありません。むしろ、時間外連絡の原則・例外(緊急時)・不利益取扱いの防止など、ルール整備をしたか否か、ルールに沿った運用がなされたか否かが、トラブル発生時に問われやすくなります。
したがって、法改正やガイドラインの公表を待つのではなく、先に現場で回るルールを整えておくことが重要になります。
中小企業の実務対応ルールは?
──時間外の連絡の「禁止・例外・代替手段」──
ルール作りでは以下のような点に注意する必要があります。
1.全社ルールの作り方
- 就業規則や社内文書により、勤務時間外は「即時返信の義務なし」「翌営業日の対応でよい」ことが原則であることを明示する。
- 原則だけではすぐに形骸化するため、例外事由(緊急時など)も明示する。特に、「緊急時」の定義(システム障害・事故・顧客への実害の発生など)と「緊急」か否かの判断権者を明確化する。
- 原則を堅持するための連絡代替手段を用意する。例えば、緊急連絡ルート(夜間休日ダイヤル・夜間休日窓口・夜間休日緊急対応の当番制)を整備するなど。
2.チャット運用の工夫
- 従業員や顧客にも分かるように、チャットの表示名(名前の横など)に対応可能時間を入れる。ステータス(退勤・離席など)を表示させる。
- 通常連絡用のチャンネルと緊急用チャンネルを分け、通常連絡は時間外にミュート可能にする(時間外に「見えてしまう」ことを減らす)。
3.評価制度・人事制度と切り離す
- 就業規則や社内文書により、「時間外に反応しないこと」を不利益取扱いしないことを明文化して周知する。
- 緊急対応は当番が担当し、「個人の善意」に依存しないようにする。
4.外部関係者(顧客・取引先)に向けた説明
- 顧客・取引先にも夜間や休日の連絡は担当者ではなく緊急連絡ルート(夜間休日ダイヤル・夜間休日窓口・夜間休日緊急対応の当番制)へするように、事前に掲示や案内をする。
- 顧客・取引先にも、「つながらない権利」の法制化に向けた議論が進んでいることを説明して理解を求める。
5.運用後の検証(ログ・実態調査)
- 定期的に、従業員それぞれについて時間外対応の頻度を調査・棚卸しして業務分担を見直す。
- 調査・棚卸しの結果、時間外対応の多い従業員について、本人への面談、上司・同僚・部下への事情聴取、場合によれば顧客・取引先への事情聴取、これらを踏まえた社内会議により、原因の特定と改善策を決める。
まとめ:ルールの整備は「働きやすさ」だけでなく「紛争予防」への投資
「つながらない権利」の法制化に向けた整備を!
アクサ生命保険事件では、帰宅後の遅い時間に部下へ頻繁に業務報告を求める行為が、その態様・頻度次第で「業務の適正な範囲を超える」としてパワハラに該当し得ることが示されています。
こうした裁判例がある以上、時間外の連絡を個人の裁量に委ねる運用は危険です。
労働基準関係法制は労働政策審議会でも継続的に議題となっており、今後の議論(2026年内の動向も含む)を見据え、いまのうちに「連絡の原則」「例外(緊急時)」等を社内ルールとして整備しておくべきです。
弁護士法人ブレイス・社会保険労務士法人ブレイスは労務のルール整備の専門集団です
「つながらない権利」は、従業員の心身を守るだけでなく、残業代トラブルやパワハラの認定、離職による戦力低下を未然に防ぐための「会社を守るルール」でもあります。
弁護士法人ブレイス・社会保険労務士法人ブレイスでは、就業規則や運用ルールの整備、管理職向けの周知研修、緊急連絡のフローや手当の設計まで、企業の規模や実態に合わせて具体的かつ分かりやすく制度設計します。
小さな違和感が大きな紛争になる前に、ぜひ一度ご相談ください。




