なぜ今、経営者が押さえておくべきなのか
令和7年6月の労働安全衛生規則改正により、職場における熱中症対策が事業者の義務になりました。
実際に労災事故が発生した場合、会社の責任が本格的に問題となるのは事故から数か月後になることも少なくありません。
だからこそ、暑さが落ち着いた今の時期に、今年の熱中症対策に問題がなかったかを振り返り、来年に向けた体制整備を進めることが重要です。本稿では、改正内容を踏まえ、企業が熱中症対策において確認すべき点を解説します。
会社の安全配慮義務とは何か
1.労災と安全配慮義務
労災認定は、業務と傷病との間に因果関係があるかを労働基準監督署が判断し、労働者に対する保険給付の可否を決めるものです。これに対し、安全配慮義務違反は、会社が労働者に対して負う契約上の義務を果たしていたかという民事上の問題(損害賠償責任等の問題)です。
労災として認定されたからといって当然に会社の民事責任が生じるわけではありません。逆に労災が認定されなかったとしても、安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求は成り立ち得ます。両者は別個の枠組みで判断されることを、まず押さえておく必要があります。
2.令和7年6月改正で新設された労働安全衛生規則第612条の2
令和7年6月の法改正により新設された労働安全衛生規則第612条の2は、事業者に対し、以下の2点を義務付けています。
知すること
② 当該作業からの離脱、身体の冷却、必要に応じた医師の診察等、症状悪化を防止するための措置の内
容と実施手順をあらかじめ作業場ごとに定めて周知すること
3.改正義務の履行と、安全配慮義務を尽くしたことは同義ではない
労働安全衛生規則第612条の2が求めているのは、報告体制や対応手順という「仕組み」の整備にとどまります。これに対し、安全配慮義務は、「個々」の労働者の作業環境や健康状態に応じて、熱中症の発症そのものを未然に防止するための「実質的」な措置を講じることまで求めるものであり、両者の水準は異なります。
そのため、改正で義務付けられた体制さえ整備しておけば、安全配慮義務違反のリスクがなくなるわけではありません。仕組みを整えたことは出発点にすぎず、それが個々の現場で実効的に機能していたかどうかがカギになります。
安全配慮義務違反の判断基準はどこにあるのか
1.責任が認められた裁判例──福岡高等裁判所判決 令和7年2月18日──
海外出張中に屋外の溶接補修作業に従事していた労働者が熱中症により死亡し、遺族が会社の安全配慮義務違反を主張した事案です。
会社側は、休憩室の冷房設備や飲料水、冷却用の保冷剤等を準備しており、一定の対策は講じていたと主張しましたが、裁判所は、
跡がなかったこと
② 水分・塩分の摂取や冷却備品の装着を労働者本人の判断に委ねるのみで、定期的な摂取状況の確認や
指導を行っていなかったこと
③ 本人に前日から食欲不振の兆候が現れていたにもかかわらず、翌日の食事摂取状況を確認しないまま、リス
クの高い時間帯の作業に従事させたこと
④ 体調急変後、医療機関への搬送に時間を要したこと
などを指摘し、対策を一部講じていたことを考慮してもなお、十分な安全配慮義務を尽くしたとは認められないとして会社の安全配慮義務違反を認めました。その結果、後述のとおり、会社は賠償金として約4868万円の支払いが命じられています。
2.前記裁判例を踏まえた裁判所が重視する判断要素
この判決から読み取れる判断要素は、
・作業環境の客観的評価に関する要素
気温だけでなく湿度を踏まえたWBGT値を把握していたか
・作業管理に関する要素
休憩の付与や熱への順化への配慮を実効的に行っていたか
・健康管理に関する要素
睡眠・食事の摂取状況等の体調変化の兆候を的確に把握していたか
・発症後の初動対応
体調異変を把握してから医療機関につなぐまでの対応に遅れがなかったか
・予見可能性・認識可能性に関する要素
熱中症の危険性や予防対策が当時どの程度周知されていたか
・「対策の存在」と「義務の履行」の区別
対策を講じるだけでなく、それが個々の現場で実効的に機能・運用されていたか
の6点に整理できます。
この中でも特に重要なのは最後の「対策の存在と義務の履行の区別」です。令和7年2月18日の福岡高等裁判所判決は、会社が対策を「講じていたこと自体」は認めながらも、それが場当たり的・形式的な運用であった場合には、義務を尽くしたとは評価しませんでした。対策の有無よりも、その運用の実効性が問われるという視点は、これから講じる対策の設計においても意識すべきポイントです。
対策を怠った場合のペナルティ
1.労働安全衛生法上の罰則
前述の労働安全衛生規則第612条の2に違反した場合、労働安全衛生法第119条に基づき、六月以下の拘禁刑又は五十万円以下の罰金という刑事罰の対象となり得ます。これは行政上の是正指導にとどまらない、刑事責任の問題です。
2.安全配慮義務違反による損害賠償責任
刑事罰とは別に、安全配慮義務違反が認められた場合には、民法上の債務不履行責任として、被災した労働者やその遺族に対する損害賠償責任を負うことになります。そのうち、労災保険からの給付では填補されない部分については、会社が直接の賠償責任を負うため、経営上のリスクにもつながります。
3.損害賠償額の相場 労災保険で填補されない慰謝料等
損害賠償額は事案ごとの個別事情によって大きく異なりますが、目安として、前記の福岡高裁判決の事案(30代の労働者が死亡したケース)を見ると、葬儀費用150万円、逸失利益2699万9559円、死亡慰謝料1800万円の合計約4650万円から、労災保険から支給済みの葬祭料・遺族一時金相当額を控除し、弁護士費用を加算した結果、約4868万円の支払いが命じられています。
労災保険からの遺族給付や葬祭料が別途支給されていたとしても、慰謝料は労災保険では填補されません。さらに、休業損害や逸失利益についても労災保険からの支給により当然に全額は補填されるわけではないため、未填補の部分は会社が賠償責任を負う可能性があることを把握しておかなければなりません。
熱中症発生に備え、企業が整備すべき実務対応
平時に整備しておくべき記録
令和7年2月18日の福岡高等裁判所判決が示すとおり、対策を「講じていた」と口頭で説明するだけでは、安全配慮義務を尽くしたとは評価されません。WBGT値の測定・記録、休憩・作業時間の管理記録、労働衛生教育の実施記録、健康診断結果に基づく配慮の記録など、測定日時・場所・数値まで含めた記録として残しておくことが重要です。
発症時の初動対応と記録
熱中症の疑いがある従業員を発見した場合、まず意識状態の確認を行います。意識がはっきりしている場合は、涼しい場所へ移動させ、衣服を緩めて身体を冷やし、水分・塩分を補給させます。自力での水分摂取が難しい場合や意識がはっきりしない場合は、ただちに救急要請を行うべきです。
発見時刻・対応者・応急処置の内容と時刻、医師の診察・搬送の経緯などの記録は、事後的に安全配慮義務を尽くしていたことを裏付ける最も直接的な証拠になります。
労基署への報告義務と「労災かくし」のリスク
労働者が業務上の事由により死亡し、又は4日以上休業した場合、会社は遅滞なく労働基準監督署への報告する義務を負います。この報告を怠ったり、虚偽の報告を行ったりすることは、いわゆる「労災かくし」として、それ自体が別の法違反(労働安全衛生法第100条違反、同法第120条により50万円以下の罰金)を構成する点にも注意が必要です。
セルフチェックリスト
以上を踏まえ、熱中症対策に問題ないか下記のセルフチェックリストで確認してみてください。
| 項目 | 実施済み/未実施 |
|---|---|
| 作業場所のWBGT値を測定・記録している | |
| 休憩時間・作業時間を管理し記録している | |
| 熱中症予防に関する労働衛生教育を実施し記録している | |
| 健康診断結果に基づく就業上の配慮を記録している | |
| 熱中症発生時の対応手順(離脱・冷却・受診)を定め周知している | |
| 発症時の対応記録(発見時刻・処置内容・搬送経緯)を残す体制がある |
まとめ:熱中症対策は「やったか」ではなく「証明できるか」
──安全配慮義務・労務管理体制のご相談は当事務所まで──
熱中症をめぐる会社の責任は、対策を講じていたかどうかという形式面だけでなく、その対策が客観的な評価に基づいて実効的に運用され、記録として残されていたかという実質面で判断されます。令和7年6月の法改正により整備が義務付けられた体制を土台としながら、実際の運用と記録化まで一歩踏み込んで見直すことが、来夏に向けた熱中症対策の第一歩となります。
安全配慮義務や労務管理体制の整備についてご不安な点があれば、弁護士法人ブレイスまでお気軽にご相談ください。




